昭和37年7月9日
 高さ100メートル、幅500メートルのボタ山が、1週間ほど降り続いた大雨の後に崩れ始めた。
 雨の量は約630ミリだったと報道された。
 当時国鉄(現在はMR:松浦鉄道)松浦線の駅や国道204号線、田の元商店街、炭坑住宅200戸が見慣れていたボタ山の下に埋まってしまった。
 町民381世帯(我が家も含まれる)、2、100人は避難していた不幸中の幸いと言っていいほど死傷者はいなかった。
 戦後から昭和30年代にかけてゴールドラッシュと言われるような石炭産業は、次第に陰りを見せていたが、この日のボタ山崩れをきっかけに龍という町は終息へと加速していくのでした。
 ボタ山の崩れを天災か、会社責任かで、もめたようだが、復旧費が莫大なこともあり、会社倒産を防ぐことを優先し、国費による復旧となった・・・しかし、行く末ははっきりと見えていたように思える。

1週間の雨量(江迎町郷土史より)単位:ミリ
 測候所 7月1日 7月2日 7月3日 7月4日 7月5日  7月6日  7月7日  7月8日 計 
鷲尾岳
観測所 
 144  54  33  125  146  0  123  13  637



・・ボタ山崩れの推移

第一次は、
7月8日(日曜日)始まった。前日の大雨は夜が明けるとともに小降りになっていた。
 何時頃かは定かでないが、午前7時頃だったでしょうか、近くの変電所に落雷があった。
 生まれて初めて聞く、轟くような大きな音で、落雷場所が近いこともあり「ピカッ」という光と同時に
「バリッ」という音だった。
 今にして思えば、あの落雷が「ボタ山崩れ」の始まりだったように思える。が、しかし、すでに午前5時
には第4ボタ山の基部付近が崩落し始めていたのでした。
 先ほどの落雷と同時期に近くの消防所のサイレンがけたたましく鳴り始めた。
 大雨の後でもあるし火災が発生する事もなかろうにと思いつつ、飛び交う噂の中に「ボタ山崩れ」を知ったのでした。
 私は我が家の自転車を持ち出し、向かった先は、国鉄潜龍駅ホームの向こう側。所謂、ボタ山側でした。
 よく見ると、ボタ山基部付近の黄土色した部分が断続的に崩れ落ちていて、崩れた土砂の行く先は一般住宅(農家か)であった。
 すでに土砂はその住宅を呑み込み始め、飼われていたであろう牛や豚も流されていたような記憶がある。
 近くの野田川や畑などを埋め尽くしながら、午後6時頃には国鉄潜龍駅のプラットホームを呑み込み、さらに国道204号線に迫っていた。
 それからしばらくの間に、国道は寸断され交通は全く遮断されたのでした。
第2次は、7月9日(月)前1時30分、第一ボタ山が滑りはじめ、結果は悲惨なものになった。 我が家も被害にあったが、倒壊には至らなかった。かろうじて200メートル手前でボタ山は泊まってくれた。
 結局、ボタ山の滑りが停止したのは、その日の午後3時頃と記録に残っている。私の記憶に 生々しく残っている光景は、何も見えない真夜中から、次第に明るさが出てきた夜明けの瞬間のボタ山崩れの様相でした。
 停電のまま夜明けを迎えた避難所で、ただ住宅の倒壊する音と、ボタ山が崩れる音だけを聞いていた私にとって、夜明けに見た光景は、町の大半が土砂で呑み込まれていて、ただ息の詰まる光景でした。
 もう駄目か・・とも思った。 そうです、潜龍という町の終わりへの道の第1歩でした。

この後、追い打ちをかけるようにして猪調中学校の焼失(大半)した。次回の回想にしましょう

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 私が生まれて育ったのは「炭坑の街」。 小説、「青春の門」に登場する”伊吹信介”も”織江”も”ヤクザ”も”遊郭”も”労働組合”も全てそろった街でした。
 街は、いつも”石炭色”していて、選炭場の音や、エンドロスからのカラカラという音、コークスを作るため”泥炭”を焼く煙などが全体を覆い尽くしていた。
 私の家は、炭坑労働者を相手の靴屋を営んでいて、全盛期は眠る暇もない繁盛を極めて居たようで、徹夜仕事も多く、そのおかげで、母親が「肺病」で倒れる有様でした。
 私は、”靴屋の息子”で育ち、小学校に入学したときは、父親の趣味で作った”革靴”をはいて式に出たものだ。
 かと言って、我が家はそんなに裕福ではなく、”貧乏暇なし”状態だった。
 昭和30年代といえば、戦後の復興時期で石炭は”黒ダイヤ”として重宝され、日本の産業のエネルギーを担っていたのである。
 当然炭坑に従事する人口も多く、一時期は、小学校の生徒数が2,800人に達していたのです。 県北一のマンモス校と言われた事もあったように覚えている。
 団塊の世代と言われる昭和22年〜24年生まれの三世代が小学校に溢れていたのである。
 学芸会だが、生徒数が多いために、一通りのプログラムでは全生徒が参加できず、同じプログラムを二日間に渡って催されていた。 因みに、「かぐや姫」の主役が二人いたのです。 私の役は、かぐや姫が月へ戻って行くときに、それを阻止しようとする兵士役でした。
 小学校の1年生の時の担任は美人で、バラ色の1年生でしたが、2年生では男の先生、3年生の時には女の先生ではあったが、いかにも先生・・というコワーイ先生に当たってしまった。
 しかし、実はこの先生の面影が今でも私の胸奥に残っているで不思議である。
 学級は1組でしたかね・・。西側の旧校舎、道路側でしたよ。クラスの生徒数を当時の写真で数えると、なんと55名でした、現在では想像も出来ませんね。
 生徒55名の一人一人をまんべんなく指導するのですから当時の先生は大変でしたでしょうが、このことを思うと
今時の先生方はどうなんでしょうか。
 さて、新学年が始まり、新しい級友との生活がはじまった。昭和32年はまだ炭坑全盛期の頃で、学校給食の脱脂粉乳は”MEID IN AMERICA」のマークが入っていて、紙製のドラム缶が給食室の裏に積まれていた。 今思えば、県北はまだ「戦後」の様子だったのでしょう。
 55名の生徒が一斉に着席すると、最後部の席は後ろ側の壁との間に隙間を無くしていた。
 当時の席の順はまったく覚えていないが、私のすぐ後ろの席だけは完全に覚えている。 そのわけはこうだ。
 女性という言葉は当時としてはふさわしくないので女生徒としよう。 「眉目麗しい・・」を連想させる呼び方だが、私のすぐ後ろの席は、その「眉目麗しい・・」女生徒でした。 記憶を辿れば、転校生で、炭坑会社の役員の娘さんだったように思う。 上品で、長い髪も後ろできちんと分けて束ねられており、大方の女生徒の「おかっぱ」頭とは歴然と違っていた。
 そういえば、標準語といえる言語を??話していた。 かわいい口元からでる言葉は少しも尖ってはいなかった。
 その子が私の後ろの席だったのでドキドキもので、残念だったのは、その子を見る為には体をよじらせて振り返ら無ければならなかった。
 ある日の事、2時間目の休み時間には家から持ってきたアルミ製の水筒は空になっていた。(水筒の蓋に磁石なんかが付いているやつです)
 当時は全生徒が家から水筒を持参しなければならず、きまって熱々のお茶を入れて来るのが当たり前だった。
 水筒が空になってしまっては、校庭の足洗い場にある水道の蛇口に口を付けて飲むしかのどの渇きを押さえる方法は無かった。 私は、日頃から好意を持っていた後ろの席の、その「眉目麗しい」女生徒に声をかけて、お茶を分けて貰おうと考えた。 「あのー・・お茶ば飲ませてくれんね」 頃良くその女生徒も水筒から「水分補給」をしている最中だったので、快い返事だった。 「少しなら、よかヨ・・ふっ」と言って、磁石付いていたか分からないが、水筒の蓋にそれを注いでくれた。 昔のことで良く覚えていないが、「ありがとう」と言ったのか、何も言えなかったのか分からない。
 かわいい手で注いでくれた「お茶」の色に驚いて、「これ、なんね・・」と聞くことも出来ず一気に飲んでしまった。
 あの味はしばらく忘れられなかった。 それから随分と時が経った。 隣の食堂に貼られていた細長いグラスをもった白っぽい女性のポスターを見た・・・。 あのときの味は、「カルピス」だったんですね。

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高校受験の後先のはなし

 高校受験がそろそろ近くに迫って来た頃、私は担任の原田先生の面接を受けることになった。
  「どうせ志望校の事だろう」と思っていたが、一度「おまえの絵は暗い!」と言われたことがあったり、夏休み期間中に苦労して描いた絵が夏休み明けの全校朝礼の時に「これは力強い絵ですね」と紹介されドキッとしたのもつかの間、作者は私の名ではなく他の級友の名前で紹介されたりで、先生方には散々な目にあっている。
 今日も何かしらの不安を感じながら焼け残った木造校舎の1階職員室に入った。 職員室に入る時は、悪いことをしたときくらいにしか考えていなかったので目に見えない厚いカーテンを押しのけるような気持ちであった。
 志望校の事でちょっと・・」、「鹿町工業高校の機械科志望はチョット無理ばい・・」、「化学科なら・・どうにかなると思うけどね」、「そがんしたがよかよ」、「どうしてもと言うんなら、滑り止めば受けとかんね・・」と立て続けに引導をわたされた。 自分はそこそこの成績だとは思っていたが、先生の言葉はショックだった。
 「先生、化学科なら行かん方がよかです、絶対、機械科ば受けさせてください」と懇願し職員室を後にした。
 先生が納得して機械科の受験を許してくれたのは、その滑り止めを受験する約束をしたからだった。
 当時の高校受験は9科目、二日間に9科目を受験する事になっていたので、受験対策も幅の広いものであった。 やがて不幸な事が発生した。 受験の1週間程前から歯槽膿漏に苛まれた。 右奥歯の歯茎が化膿し、激痛と右顎の腫れが受験勉強の最後の仕上げを妨げた。 「・・これは、先生の言うことを拒否した為、罰(ばち)が当たった」のかと思った。 結局、それから1週間は机に向かうこともなく、参考書を開くこともなく、ひたすら右顎の腫れと激痛が改善されることを祈った。 しかし、何もしなければ何も変わらないはずである。 受験直前になって重い腰を上げ、歯医者に向かうことになる。
 今になって思うことは、「・・何故早く決断しなかったのか・・」。 歯科医では、否応なく切開手術になってしまって、あっという間に麻酔の注射の音と、メスの音を脳で聞いていた。 「痛み止めと、化膿防止を出しときますけん・・お大事に」と歯科医に見送られながら家に帰ったのだが、切開した箇所にはガーゼらしいものが埋め込まれていて、舌先で触ると不気味な感触がした。
 当日は痛み止めと、化膿止めを飲んで受験をしたのだから、頭はボーッとするは、覚えていたものは忘れてしまうわで、最悪のコンディションだった。
 不思議と受験内容の一部を覚えている。科目は音楽で、楽譜をみて曲名を回答する問題だった。 何故か音楽が好きで多少楽譜を読めるようになっていたので試験中に鼻歌交じりで歌ってみたら、「ローレライ」だった。(正解!)私の鼻歌を聴いた他の受験生は、得したか、自信を持ったに違いない。
 合格発表当日、歯槽膿漏に苦しめられたこともあり、滑り止めも合格していることもあって、鹿町工業高校・機械科の合格発表を見に行くことは諦めていた。
 朝の早い時間に私を呼びに来た同級生(女性)がいた。彼女は私と同じ高校の電子工学科を受験していた。 
 「今から、合格発表ば見に行こう〜」、しかも自転車でだ。 片道10キロ以上はある受験校へである。 「・・こちらの気も知らずに・・行く気はなか」と思っていたが、幼なじみの同級生の気力に負けて出かける事になったのである。 「・・落ちとったら、どうしよう」、「・・恥ずかやろね」、「・・気がすすまん」と思いながら、母用の女用の自転車を引っ張りだしてズルズルと出かけてしまった。(正にズルズルにである)彼女の自転車は男用であり、気持ちも自転車もまったく逆である。 道すがら、「・・よっぽど自信があるのやろね」、「・・人の気もしらんで」と思いながら彼女より少し遅れがちに高校へ向かったのである。 到着した頃には既に職員室の前に張り出された合格者名簿の前に人だかりが出来ていた。 合格に自信ありげの人だかりである。 「・・不合格は自分一人やろね、何が面白くてここまで来たっちゃろか・・・」。 彼女はいち早く人混みをかき分けて名簿の前に行き、自分の名前を確認して、しかも得意げな顔をして私の前に現れた。 「合格しとった?」、「・・こいつ追い打ちをかけやがる」と思い、仕方なく、しかし恐る恐る合格者名簿に近づくのであったが、不合格の場合の逃げ道も同時に考えていた。 しかし、
なんと、合格していたのである。 歯槽膿漏、痛み止め薬、化膿防止薬にもかかわらずである。 当時の合格発表の現場は、今のそれとは違って、歓声など上がらず、淡々としていた。 帰り道は緩やかな上り坂、行くときと違って、自転車を漕ぐ足も軽く、彼女を後ろに見ながら自宅へと急いだ。勝手なもんでそのまま中学校へと向かった。 入試の合否は焼け残った校舎側の石垣にも張り出されていたのである。今と違って、FAXやメールが有るわけでは無いので、手書きの合格発表でした。 間違いが出ないのかと思ったが案の定間違いが1件あった。不合格を合格に間違えたのであるから最悪である。中学校にも各高校の発表が張り出せるのであれば何も高校まで行くこともなったなかったのであるが、合格していたので徒労になることもなく疲れも感じてはいなかった。

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想い出の水筒

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今は、こんなに変わってしまいましたよ〜ッ

あれから47年経った現在の潜龍、猪調、田ノ元です。
少しばかり、ある特定の人(東京都葛飾区の高校の先生)向けの編集になっています。
サムネイル画像をクリックして下さい、少し大きく見ることが出来ます。

 平野の停留所 平野社宅入り口付近  平野・丸尾橋  平野・丸尾橋欄干   平野社宅は左右に
平野〜猪調小学校  小学校脇の若宮神社  門は変わらないかな  校舎は変わった  小学校から平野 
小学校から田の元へ  梅本家付近  50メートル先までボタが  給食のパンや(平田)   現在の潜龍駅
中学校跡地に残る石碑  中学校の校旗  中学校脇を走るMR     
♪ 猪調・小中学校の想い出 ♪
昭和41年、鹿町工業高校へ通った時の定期券が残ってました!
     
     
     
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ボタ山崩れが出発点
今は、こんなに変わって!
発見された「定期券」

発見された「定期券」

高校受験の後先のはなし(new)
想い出の「水筒」

なんと43年前の「定期券」。本来は都度返却しなければならなかったはずですが・・。
額面を見ると驚きですね、3ヶ月定期で学割ではあるけど、「970円」ですよ。
この定期券に想い出がいっぱい詰まっているようです。
当時は、一部蒸気機関車が走っていたのですよ。

潜龍のボタ山崩れが私の出発点だった。