ご挨拶です。
 介護ページを作ろうと思ったのは、実は私、平成17年から約4年間、老人福祉施設(公益法人)に在籍していたことがあります。
 前職はまったく畑違いのコンピュータ業界でしたので無謀な転職だったと思います。これは端(はた)から見てもそうだったと思います。
 この4年間に経験した様々な出来事、失敗、憤りなどは、私の人生にとって大きなインパクトであったと思います。
 残念ながら、家庭の事情などもあり、目標の60%も満たせず、途中でリタイヤしてしまいましたが、これからは、私のホームページで「老人介護」についての生々しい、本音の気持ちを紹介して行こうと思います。
ただし、お断りをしておきますが、私が在籍していた職場は、「養護老人ホーム」、「特別養護老人ホーム」で、他の施設系介護サービスについては無知ですのであしからず。



映画”ソイレントグリーン”より
 
1973年に日本で公開された洋画で「ソイレント・グリーン」という映画を観たことがある。 
 36年前の映画で、私が25歳の時の映画である。 一部の知人には中学生か高校生の頃に観た映画と言ったが、記憶というものは当てにならないものです。 私の場合、概ね10年以上前の記憶はそれ以上に昔の事と意識してしまうようである。 話を映画にもどします。主演はチャールトン・ヘストンで、テレビ映画で「ザ・ライフルマン」の主演だったチャック・コナーズも出演していたと覚えている。 ストーリーは、2022年の未来ニューヨーク、人口4,000万人(現在は約800万人位かな)、人口増加と地球環境悪化による食料不足で、一部の裕福層を除き、ニューヨーク市民は週一回の食糧配給で生き延びている状況であった。 この食糧を供給するソイレント社は、材料のプランクトンの減少により、新製品ソイレント・グリーンを開発したが、品不足から配給を待つ市民の暴動になりかねない状態だった。このソイレント・グリーンをめぐってある殺人事件が起こってしまうのだが、主役の刑事ソーン(チャールトン・ヘストン)が捜査を続ける内に、事件は大物がからんだ陰謀と確信した・・。最終的にはこのソイレント・グリーンという食料の原料が明らかにされて
いくのだが、私の記憶の中に印象的に残っているシーンがあるので紹介しよう。 人口過剰の中で、食糧不足の唯一の解決策は、人工的に人口を減らすこととなった。 それは、人間がある年齢に達したならば、安楽死を選択することが出来るのである。 記憶によれば、それは半強制的だったのではないかと思う。 
 環境悪化、食糧不足の現実を見れば、生き抜く価値のない世界だと悟った老人達は積極的に安楽死を選ぶことになる。 安楽死室では、特別な(美しい)部屋のベットに横たわり、目の前の大画面に映し出される、かつて見たことがあり、今は現存しない美しい大自然の風景を見、ベートーヴェンの「田園」を聞きながら、死を迎えるのである。
 さて、この映画のクライマックスでは、ソイレント・グリーンという食糧の原料が明らかにされていくのであるが、その原料は、なんと「人肉だったのである!」。 そうです、安楽死した老人達は食糧供給会社の食糧工場へとベルトコンベアーで運ばれるのである。(人口抑制と食糧不足解消) 
極論ではあるが、人間の寿命が80歳であったら、食糧不足、地球環境の悪化、年金問題、介護問題、自殺問題などは防げるだろうか。 近い将来、高齢者になる自分自身にこれらを重ね合わせると、生きていること、長生きする事がいかに大変なのかということをヒシヒシと感じさせられる。 せめて、家族や他人に迷惑をかけることなく自分の老化に責任を持ち、その人生を全うすることが出来たら、と思うことしきりである。「”姥捨山”は遠い昔の話と思う人が多いのだろうが、今も全ての人間の奥底に根付いいるのではないのでしょうか


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我が家の介護(その1)  認知症と”抑肝散”
 母が認知症を発症しました。 最初は物忘れから始まり、次第に妄想が始まりいつも捜し物をしている状態が続くようになりました。
 原因にはいくつか考えられるところが有りますが、最上位は長年暮らした愛知県から私たち夫婦と同居するために5年間引っ越してきた事と思われます。
 高齢者にとって環境が激変するということが精神的に耐えられなかったのでしょう。
 認知症が如実になった時期は平成21年の8月頃、自分のお金の事、財布のことで、それを紛失した(実は、保管場所を忘れている)と大騒ぎ。 挙げ句の果てに「誰かが盗った、隠した・・」と喚くようになったのです。
 ある日はそのようなことが1日に3回ほど発生し、我々夫婦で都度探す始末でした。 なくしたものはタンスの隅から発見されるのですが、本人は毎回納得しません。 所謂、妄想が始まり、父については「よその人(女)と浮気をしている」と言い始めました。 これは父にとって相当なショックだったようで精神的に参ってしまいました。 父の主治医の配慮もあり、父を一時待避のために入院させたりしておりましたが母の症状は次第にエスカレートしていきます。
 母のターゲットは父です、浮気をしていると言っては罵るやら、ものを投げるやらの暴言、暴行。 ある時は夜中に突然騒ぎ始める事もありました。
 今になってみれば笑い話になりますが、父の背中に噛みついたあと、暫くして入れ歯がないと大騒ぎ、その入れ歯は父の着ているシャツの背中にしっかりぶら下がっていました。
 そんなこともあり、私自身も鬱になりかけ、家内も同じく精神的に参ってしまう毎日が続いてしまいました。
 前職は介護施設で「認知症」の入所者を毎日観てはいて覚悟は出来てはいたのですが、他人の介護と身内の介護では雲泥の差があるということを思い知らされました。 身内の介護となると、つい感情が全面に出てしまって、それで自分自身の精神状態も悪くなっていくのでしょう。
 そんなことが続いたので佐世保市に相談してみたり、認知症対応のグループホームに相談したりして、何とか解決策を見出そうと努力しました。
 おかげで母の介護認定までこぎ着けました(要介護1)。 また、ふとしたきっかけでNHK教育テレビ視ておりましたら、丁度介護(認知症)の番組でした。 その番組で私が興味をしましたのは、漢方薬の「抑肝散」(よくかんさん)でした。 この漢方薬は、妄想、暴言、暴行等に効果があり、ある認知症高齢者の事例では、それまで険悪な状況であった介護者である息子さんとの関係も昔の状況を取り戻し穏やかに暮らすことが出来たと言うことです。
 早速、母の主治医にお願いして処方して頂きました。 1週間もしないうちに母の状況は改善され、今までの諸症状は出くなったのです。
 世の中には素晴らしい漢方薬が有ったのです。 友人の父も同じような症状でしかも徘徊があり苦労されておりましたが、私からの情報で投与したところ状態が改善され、直接の効用では無いと思うのですが、徘徊も無くなったと連絡がありました。 
万能では無いと思いますが、漢方薬でもあるし試しみてはどうかと思います。
 同じような事で介護に悩んでいらっしゃる方がいらっしゃいましたら、是非、主治医に相談して見て下さい。

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我が家の介護(その2)  介護認定
 
高齢者は、なかなか介護認定を受けたがらない!。
 私の父母も同じ事で、5年間に気を利かせて介護認定の手続きをして佐世保市より保健士さんにきてもらったところ、「俺たちはそんな歳ではない!」などとと話も聞かず保健士さんを追い返してしまいました。
 気持ちは分かるような気がしますが、体と頭は一致せず自分たちは若いと思っていたようです。
 今になってみればあのとき介護認定を受けていれば遠回りせずに済んだのにと悔やまれます。
 ご存じの通り、最初の認定から次の認定までの期間は6ヶ月、その後は1年ごとの更新となります。
 今回、認定が成功した要因は、「ウソ」からでした。「嘘も方便」という詞がありますが正にその通りで、認知症の高齢者には適当な「ウソ」も必要なのではないでしょうか。介護者にとっても介護受ける方にとっても介護保険の制度は積極的に利用すべきだと思います。 それにはまず「介護認定」です。 後はこれをベースに考えればよいのです。 母の認定は「若い女の人がお母さんと話がしたいと言っている」という「ウソ」から始めました。 勿論、保健士さんとも根回しをしました。 最初は怪訝な顔をしていましたが一通りの調査が終わりました。 しかし、最後になって認知症の症状が出て暴言が始まりました。 これはこれで認知症の症状を保健士さんに確認して頂いたので良かったのかなと思っています。 よって最終的に要介護度2となり、必要な介護サービスが受けられるようになった訳です。
 高齢者は介護サービスについてよく理解していません。 これが介護認定を受けることを拒む一つの要因になっていると思います。
 特別養護老人ホーム・デイサービス・デイケア・グループホーム・介護用品にレンタル・訪問介護等々、その中身もよく理解していません。
 自分が高齢者になって一人で暮らすことが出来なくなった時、どうしら良いのか不安だと思っているはずです。 「人の世話にはなりたくない」という思いもあるのでしょう。 
 介護保険のサービスはわかりにくいところもありますし、施設への入所は「厄介者の掃きだめ」と思っている所もあります。 これらの壁を取り払うことも大事な事です。 さらに高齢者を様々なサービスの入り口まで導くことも大事な作業ではないでしょうか。


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東京タワーは倒れない!はウソ
また悲惨な事故が起きてしまった。北海道のグループホームから火災が発生し入所者の7名が焼死した。 平成18年に発生した長崎県大村のグループホーム火災から4年が経つというのに同じような事故だった。
 今回の事故で既存のグループホーム経営者は背筋に冷たいものを感じただろうが、果たしてその教訓は自分の施設に生かされるのでしょうか。 「のど元過ぎれば熱さ忘れ・・」では困るのである。 今回の件で自分の施設に不足している設備があれば即手を打つべきだ。 そうでなければ明日、いや今日にも自分の施設に事故が発生する可能性は100%といって良い。 しかし、「人間は痛い目に遭わないと分からない」習性を持っているのでその説得も難しい。 自分の施設は大丈夫、火災なんて起こらない、ほら今までだって大丈夫だったじゃないか。
 たとえは悪いと思うが「東京タワーは倒れたことがない!」、その通り今も凛として高さ日本一を誇っている。 一度も倒れたことがないから安心している。 万が一倒れたとしよう、「ほら、やっぱり倒れることも有るんだ」と思って、他のテレビ塔は大丈夫か?というはなしになる。 
 世の中には設備等でいろいろな問題を抱えている施設が多いと思う。 避難経路、立地環境、防火消防設備等々だが、今日は無事だったから明日も大丈夫という考え方は止めて貰いたい。 事故が発生してから反省してもその犠牲は余りにも大きい。 少なくとも少しでも問題が有るのであれば今すぐに解決に向かって着手して頂きたい。 これも出来なければ「人の命」を預かる”商売”から手を引くべきだと思う。
 今回の火災で「避難誘導に問題はなかったか検証しなければ・・」とマスコミは報道しているが、認知症対応型グループホームの夜勤者が1名ではどうにもならない(なす術がないというのが現実)。 しかもスプリンクラー無し、火災自動通報装置なしでは、119番通報するので精一杯でその間に施設内は火に包まれていく。 避難どころではない現実をしって頂きたい。 職員が悪いのでは無い、経営者が不感症なのである
 一つ気になっていることが、「小規模多機能型居宅介護」である。 通いから始まる施設でありながら大方の施設は泊まりで定員に達している。 私が心配してることが現実にならなければと祈っている。

 

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我が家の介護(その3) デイケア騒動編
3月15日よりデイケア(通所リハビリテーション)に通うことになった。
 今のところ週2回のペースで月曜日と金曜日がその日にである。
 母は、積極的に人と交わることが得意な方ではなく、どちらかというと周りからちやほやされるのが好きな方である。 果たしてデイケアのような団体生活が出来るのやら心配であった。 本人もいささか心配なようで、「ちゃんとリハビリができるやろか」としきりに言う。 ウソも方便で、「デイケアは家族のためでは無く、お母さんの為よ」、「元気に歩けるようになったら黒川温泉に行こうよ」、「ひ孫にも会いに行けるぞ」(因みにひ孫は4月の始めに誕生する)などと何とか説得させて1日目は出かけた。
 帰って来るなり、「もう行かん!」、「リハビリはしなかった」、」じ~っとしているだけだった」と不満をたらたらと言う。 予想はしていたし、大方の高齢者のそれである。
 翌々日、なだめるようにして外出支援(ハウステンボス)を行い、デイケアの不満を忘れさせようとした。 「外出支援もリハビリみたいなものよ」
、「一週間に一度は外出支援だから、次のデイケアも頑張ってネ」となだめるが、「デイケア」の言葉聞いた瞬間に顔つきが険しくなる。
 2回目のデイケアの前日から「デイケアに行きたくない」、「リハビリもしないのでいっちょんつまらん」、「どうしても行かんといかんかい」などと険しい顔つきになる。 当日の朝早く台所の家内の所までそそくさとやってきて、「今日は一歩も歩けないくらい具合が悪いのでデイケアは行かん」という。 一歩どころか何歩も歩いて台所までやってきているのに本人気づかず。
 当日でもあり何とか家族でネゴシエイトして出発させた。迎えの車に乗車し、出発時には軽く手を振ってくれた。 まるで幼稚園の子供をなだめすかして通わせるようである。 気になったのでデイケアセンターを訪問し母の様子をうかがった。 案の定、険しい顔つきでリハビリを受けていた。 「風呂に入ったのかい?」と聞くと、「風呂には昨日は入ったから今日は入らん」という。 どうやらセンターの入浴も気に入らないようである。(本当は昨日入浴はしていない) 母曰く、「係の人には昨日入ったと言えばよかと」とまた駄々をこねる。
 まもなく帰宅する。 帰宅時に何と言うか楽しみでも有るし不安でもある。


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我が家の介護(その4) 「別人28号」
 皆さん、高齢者となった場合、それも認知症が進行し我が子の顔を見ても「どちらさんでしょうか?」と言うようになった自分を想像してください。
 認知症の自覚症状が有る内はまだ救いようがあるが、自分の排泄物を手で掴んで食べるようになったり、夜な夜な徘徊を繰り返すようになった自分を想像してみてください。 私の母は今のところ認知症の自覚症状が少しありますので時々「なして、こがん馬鹿になったっちゃろか?」といいます。
 昨年の9月頃から12月頃までは表情もきつく、妄想、暴言、暴行が続き家族全員が総「鬱」状態でした。 家族には笑いが失せてしまい、今日はどんな事件が待ち受けているのか戦々恐々としておりました。
 特に、正常な頃の母の人格が激変し「凶暴」と変わり果ててしまッたことはショックでした(まともな人格は何処へ行ったのやら)。 85歳の父が若い女の人と浮気をしている、通帳が無くなった警察を呼んでくれなどと言われると、「母は認知症なんだ」と自分に言い聞かせても、反す自分の言葉がとげとげしくなってしまいました。
 ”何もしなければ何も変わらない”・・何もしなかったら今も母の介護で苦しんでいたことでしょう。 行政(佐世保市)、近隣の介護施設、主治医などに相談しやっと解決に向かいました。 主治医から処方された漢方薬(抑肝散)と西洋医薬(セレネース)で母は「別人28号」となりました。人格も本に戻り、痴呆の高齢者としては理想の「可愛いおばあちゃん」となりました。 家族の対応にも変化が表れ、私と母の関係も改善されました。 何時までも母が「別人28号」のままでいることを祈りたい。 
 皆さん、どうせ呆けるなら可愛く呆けましょう!


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我が家の介護(その5) 「別人28号」の近況
 デイケアに通い始めて5回目、帰宅するなりいつものことながら「もう行かん・・絶対行かん」と言う。 しかし今回はその訴えもきつい。 原因は有ったような無かったような、実はデイケアに出発する前に「明日はハウステンボスでリハビリだから」と私が行ったことを勘違いしてその日にハウステンボスだと誤解したようだ。
 私も反省をしなければならない。 認知症が進んでいる状況でデイケアとハウステンボスの話を同時にしたことが本人を混乱させたようです。
 帰宅するなり「だまされた、家族にだまされた・・」と言う。 ショックである。
 ケアマネージャと相談した結果、暫く某リハビリテーション病院のデイケアを休むことにし、 本人に適した小規模のデイサービスを検討することにした。
 最近、食事後の「お腹空いた、お腹空いた」コールが頻繁になってきた。 しかも、食事中に自分が食べているものが何だったのかを忘れてしまいます。 皿に残ったおかずを見せてやって「これを食べたんだよ」といっても「うそばっかり!」という始末。 食事前に献立の写真を撮り、それを見せてやっても「うそばっかり」と言うだけ。 
 食事後一時間位すると「お腹空いた・・」の連発である。
 都度、カロリーの少ないものを少量食べさせている。 定番の「今から食事の準備をするから」などという説得は通用しないような気がします。
 どなたか良い妙案をご存じの方、どうか教えて頂けませんでしょうか。 このままだと糖尿病になってしまいます。 父は「糖尿病にでも何にでもなってしまえーッ」と言いますが・・・。
 先日(3月31日)、我が家に新車がとどきました。 母の自家用車(車椅子)です。 母は大喜びで、「金はいくらかかったっちゃヨカ!」と豪語しますが、呆けで金はいくらでも有ると思いこんでいます。幸せな「別人28号」です。


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我が家の介護(その6) 「別人28号」のその後
 4月6日、急に生気が無くなり7日も同じ状態であったためかかりつけ医を受診。 医師の診断では、出来るだけ早く精神科医を受診した方が良いとのこと。 4月23日に「佐世保中央病院・物忘れ外来」受診を予約していたので、これを早めることが出来ないか打診した。 非常に丁寧に対応して頂きなんとか4月9日の予約を取って頂いた。 
 当日は14時半からの受診。 早速、血液検査や問診、MRI撮影を行った。 しかし、MRI検査中に「トイレに行きたい!」という訴えがあり動いてしまった為にMRI撮影は失敗!。(なんと言うことだ) 急遽「CT」に変更して撮影は無事終了した。

 このほかに数種類の検査を受けた結果の診断は「レビー小対型認知症」ではないかとのこと。 レビー小体型認知症とは、変性性(脳の神経細胞が原因不明に減少する病態)の認知症ではアルツハイマー型認知症に次いで多い病気です。 母の脳の撮影写真を見ますと左側の脳が目で見て分かるほど萎縮しています。 特に左側「海馬」の部分が如実です。 このため、物忘れが起こり、「お腹空いた!」コールが起こるとの事です。
 まだ病名が確定した訳ではなく、これから「かかりつけ医」と相談して「くすり」を調整していくそうです。 一見愛想の悪い医者でしたが診断は的確で躊躇せず行動を起こしてくれました。 今回母の頭の撮影映像を始めてみましたが、改めて老いることはたいへんなことなんだなぁ!と思いました。
 約3時間の受診で母は少し疲れ気味。 「たいへんだったね~」とねぎらいの言葉をかけると、「あんた達のほうがたいへんだったね」という言葉を返す。そんな母を見ていると「本当に呆けているのかな?」と思いました。
 4月13日は小規模のデイサービス体験日、気に入ってくれればと思っている。


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我が家の介護(その7) 「別人28号」の検査
 4月14日、佐世保中央病院(物忘れ外来)より母の検査結果について再度説明をしたいとのことで訪問した。中程度の認知症で右脳の「海馬」が萎縮している(写真では黄色のマークの部分を左右で確認)。明らかに萎縮が見られるため今後は「人の顔の認識が出来なくなる」、「現在はそのスピードを遅らせる薬しかない」とのこと。(写真で右側のマークの部分は黒い影が大きい・萎縮)
現在のかかりつけ医では対応できないので専門医を紹介するので受診するようにと指示があった。
現在、セレネース錠を朝昼夕に服用しているが、これを調整して朝夕のみとする指示も受けた(パーキンソン病の兆候有り)。
薬の調整を初めて1週間、最近の母は言動が少し元に(凶暴が出ていた頃)戻っているような気がします。声の大きさも少し大きくなって力強さが出てきているようです。 父との会話の中身も「過去をなじる」ようなものになってきました。
とうとう、父も音を上げ母の面倒を看ることを放棄し始めました。 結果、夜だけは私が母の傍で寝るようにしました。 母は夜中に3回ほど尿意をもよおし私を起こします。 父の場合はいちいちベットから立ち上がらせ、トイレまで誘導させ、終わった後はベッドまで誘導させ寝かせ付けることまでやっていました。 私が傍に寝るようになってからは誘導などはしません。 「おやつの時は自分で立ち上がって食べに行くじゃないか!」と言って自分で立ち上がらせるようにしていますと、「漏らしてしまう」といいます。私はすかさず「漏らしても良いよ」といいますと、渋々立ち上がってトイレへ行きます(誘導もしません)。 私の介護の方針は、「残っている機能は積極的に使わせる」、「見守ることはしても手を出さない!」主義です。どうやら父には甘えていたのじゃないかとおもいます。 結果、私は嫌われてしまっています。 昨日、髪を切りたいという要望があったので美容院へつれていきました。 歳はとっても女は女、鏡を見ながらいつもより生き生きとした表情をしていました。物忘れはひどくなりましたが、左の脳が右の脳をしっかり補完しているようです。 時々「呆けてないんじゃないのかな」と思うことがあります。

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我が家の介護(その8) 「別人28号」のショートステイ
 3月8日に千住病院を退院した後「デイケア」に挑戦していたが折りが悪く5回目で断念してしまいました。 その後小規模な「デイサービス」を紹介して頂きそこに通い始めたところ気に入ったらしく現在も継続しています。 今回紹介して頂いた施設は「ドリームケア日野」で普通の民家を少し改造したもので家庭的な感じがする所です。 
 また、小規模な為こまめな個別のケアを受けられるので本人(別人28号)は気に入っているのでしょう。 さて、今回はショートステイに挑戦です。 将来は施設での生活ということを考えておりますので丁度良い機会かなと思っておりました。 ショートステイ先は「すいざん荘」(老人保健施設)で期間は3泊4日、出発当日は着替えもスムーズに済ませ迎えの車を待っておりました。 出発間際になって「姥捨て山に連れて行かれる」と言って拒み始めました。 予想したとおりでしたが「姥捨て山・・」という言葉は辛かったですね。 心を鬼にして送迎の車に乗せても助手席で「姥捨て山・・」と言っていました。 何とか送り出した後の私たちの心は後ろめたく、悪いことをしてしまったという気持ちが残ってしまった。
 事前に見学もしていたのですが本人に取っては辛かったんですね。
 ショートステイの期間が終わり午後4時半に帰宅してきました。 それまでは「帰ってきたらなんて言うだろう」とかまた険悪な状態になるではなどと心配しておりました。 しかし、そう言う心配とは裏腹に本人は元気に明るく帰ってきました。 さらに出かける前と違って表情が明るいし、あれだけ出ていた「ヨダレ」もまったく出ていないのです。 「すいざん荘に行ったら元気になったね」というと「また行こうかね!」という始末。 あれだけ心配していた私たちは何だったのだろうと思っております。 小規模のデイサービスに通っていた為ショートステイもスムーズ受け入れられたのだろうと思います。 最終的に施設での生活を考えていらっしゃる方は段階的に目的に向かった方がよろしいのではないでしょうか。 次回のショートステイは6月17日からの2泊3日です。 楽しみにしているようです。 ホットしています。(正に別人28号です)

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我が家の介護(その9) 「別人28号」の急変
 6月10日、大阪在住の私の妹が両親に会いにやって来た。妹は肝臓癌を患っており、まもなく地元の国立病院へ入院することになったとのこと。 入院すれば二度と両親の顔を見ることが出来なくなるかも知れないということで両親に会いにやってきた。 未明のことである、突然1階が騒がしく父と口論が始まった様子。 母は興奮しており数ヶ月前の状態に戻ったような状況になった。 二日目の夜には寝ている妹の枕元に頻繁にやってきては「大丈夫か、大丈夫か・・」と言って妹の頭をなぜていた。妹が帰る前日は「財布がない、財布がない」と不安げな様子。どうやら妹に小遣いを渡したかったらしい。 妹が大阪に帰ってからが大変だった。 突然「おまえが金をむしり取った」と私に言い始めた。 数ヶ月前(昨年12月頃)の状態に戻ってしまっている。
 最近、母のテンションが上がってきていた。しかし、動作も正常に戻りつつ有ったし、何よりも言動がはっきりしてきていたので安心していた。これには理由があって、4月に「物忘れ外来」を受診した後から担当医の指示でセレネース錠を1日3回から2回に減量していた。さらに最近は1回に減量していた為かと思う。
 母の様子が急変した原因はセレネース錠を減量したためかと思い増量してみようかと考えたが、主治医の森山クリニックに相談することにした。
 主治医の話では、環境が変わったり、今まで居なかった人が急に現れて生活するようになると急に興奮状態になることがあるとのこと。 結局医者の指示でセレネース錠を1回増量することにした。
 2,3日で「金をむしり取られた」の妄想は出なくなりゆっくりと元の状態に戻っていった。 現在母は、認知症予防の「アリセプト」を服用している。 この「アリセプト」は副作用として気分高揚がある。 この高揚を押さえるために「セレネース」を服用しているの。 父も「アリセプト」を服用して居るので最近怒りっぽい。
 認知症とのつきあいが長くなり対応の仕方も或程度分かってきたが急変すると怖い。 その点私の妻は天使のようである。誠に母のあしらいが良く、母からの信頼も厚いのである。

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我が家の介護(その10) 「別人28号」のオムツ
 7月に入って、母の失禁が多くなった。 しかも尿の失禁は少なく便の失禁が多いのです。 失禁が始まったのは2~3ヶ月前からですが、7月に入ってその回数が多くなりました。
 当初、本人はそれに気がついて居ませんでしたがその臭いに家族が気がついていました。 最近は、「しくじった」というようになり本人も意識するようになったのです。特に7月27日には家族全員が居る前で失禁が発見され、とうとう全員の前に失禁が明らかになったのです。
 本人は「何時出たのかなぁ」、「どうしたんだろう?」と落ち込んでいる。 歩く後ろ姿も傷心したようにうなだれています。(私も切ない!)
 さて、オムツ着用の件だが、何時着用を薦めるか、何時決心させるか思い悩んでいたのだが、この際思い切って話をしてみることにした。(毎回下着を捨てるわけにも行かない) 勿論、男の私からではなく女であるカミさんからオムツを薦めた(これが最善だと思った)。
 母の反応は意外にも素直だった。母は、「どうしようかと思っていた」、「助かったぁ」と言ってオムツを試着した。 満更でもないようだ。 カミさんからは、オムツをしていることは男二人(父と私)には内緒にしているからと言ってあるようだ。
 歳をとっても「女は女!」である。ある日突然失禁し、オムツを着用するようになるということはショックであろう。 自分がその立場になったら一気に落ち込むであろうし生きる力も失ってしまうだろうと思う。
 オムツの着用が始まったからといって全ての問題が解決したわけではない、失禁後の後始末は依然として残っている。申し訳ないと思うがこれもカミさんが引き受けてくれるのだが大変な作業だと思う(切ない!)。
 介護のレベルは確実に上がってきている。 これから新たな課題が出ることは間違いない。自分たちだけで悩むのではなく周りの関係者に相談しながら対応したい。

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我が家の介護(その11) 「別人28号」ついに故障
 10月15日、お願いしていた歯科医が母の入れ歯の調整に訪問してくれた。 入れ歯の調整にはあと数回の訪問が必要とのことでいつものように次回の訪問予定を告げて引き揚げていった。 その10数分後、食卓の椅子から立ち上がろうとしてよろめき(足がもつれた)転倒してしまった。 正確には右側を下にして転倒してしまったのだ。 私は、瞬間的に「骨折」を予感した。 どうやら頭は固いフローリングに当たっていなかった。 私は思わず「やった!」と言ってしまって、後日母に「お前は、ヤッター!(歓喜のような)」と言ったと恨まれることになった。
 まず立ち上がれるかを確認したが、すんなりとは立ち上がれず少しの痛みを訴えていた。 その痛みは徐々に増して行って倒れた状態から起き上がることも難しくなった。 両親の救急は決まって病院が休みの日か時間外に発生する。 まことに厄介で、仕方なく救急車のお世話になってしまます。佐世保の市民になって6年になりますが通算5回目の119番通報である。 転倒した時間は17時20分、今回は「骨折」していることが濃厚であったこともあり、また以前に「労災病院」に入院していたこともあって直接「診てもらえるか」電話をした。 少し時間はかかったが「連れてきてくれ」との事だったので車で連れて行くことにした。 立てる状態ではなかったので私が背中におぶって車に乗せたのだが、意外と重い。まだまだ長生きすると思った。
 病院での診察の結果「大腿骨頸部骨折」とのこと。 翌週の月曜日に手術、入院、そし
リハビリ療養のため転院し現在は「千住病院:療養病棟」に入院中である。
 高齢者の場合、転倒し骨折、手術した後は手術前よりも歩行のレベルは数段落ちるのです。 母は、手術後3か月になろうとしていますが歩けません。 リハビリの効果も期待できないようです。 「別人28号故障中」です。 見舞いには毎日行っております。 母の大好きなコーヒーとスポンジケーキを持っていくのですが、「昨日は来んじゃったろ」といいます。「なんでこんなになったんじゃろ」とも言い、転倒し手術したことをすっかり忘れてしまっています。
 入院中の母の口癖は、「ありがとうなぁ、ありがとうなぁ」です。 この言葉は私にとって「殺し文句」です。 暴言、暴行、妄想、を繰り返していた母は何処へいったんでしょうかね。


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我が家の介護(その12) 「別人28号」は介護度4
 
母の介護度は4。転倒後に一気に介護度1から4に上がった。転倒事故後に手術を行い、現在は千住病院の介護病棟にて入院リハビリ中である。
 介護病棟ではあるが、特養やグループホームのような介護システムはない。しかし、病変した場合には一般病棟へ移ることもでき私たち家族にとっては都合がよい。本人はどう思っているのだろうか。
 物忘れも激しくなった。時々、「うちは、なんでこんなになったんだぁ」と言う。都度、転倒、手術、入院、転院、リハビリの顛末を説明するが、しばらく経つと同じ質問が返ってくる。質問される度にその顛末を繰り返し説明する。認知症の物忘れについては、「さっき言ったじゃない」とか、「何べん説明させるの」と言うのは避けなければならない。人間の尊厳を無視した取り扱いは禁物なのです。娘が癌で亡くなったことも忘れている。これを説明して理解させるのがつらい。
 私たちは、ほとんど毎日見舞いに行っている。母の表情は少しずつではあるが無表情になってきている。何か問いかけてもすぐには返事が帰ってこない。いつも何度か問いかけた後に返事が返ってくる。返事をするのが億劫なのか、聞こえていないのかわからないが、私たちは辛抱強く対応している。笑顔も随分長い間見ていない。「ありがとう」、「わるいなぁ」、「助かるよ」、「また来てな」などとこちらを気遣うことが多くなった。天使のようだ。
 現在、迷っていることがある、今の病院で介護を続けるか、特養などの施設で余生を楽しく過ごさせるかである。もちろん楽しい方が良いに決まっているが、本人が施設入所を理解してくれるか心配なのである。近いうちに完成する”ミニ特養”に入所できる可能性があるが、入所したとたんに認知症が進行したり、拒絶が始まったらどうするかを考えておかなければなりません。さて、どうしたらよいのでしょうかね。

 
現在、迷っていることがある、今の病院で介護を続けるか、特養などの施設で余生を楽しく過ごさせるかである。もちろん楽しい方が良いに決まっているが、本人が施設入所を理解してくれるか心配なのである。近いうちに完成する”ミニ特養”に入所できる可能性があるが、入所したとたんに認知症が進行したり、拒絶が始まったらどうするかを考えておかなければなりません。さて、どうしたらよいのでしょうかね。TOPへ




母がミニ特養に入所して2か月が経過した。施設入所については、病院に入院している頃に飽きるほど説明しておいたし、本人も「新しいところだったら」と納得していたはずだったが、入所当日の母の顔は怪訝そうな表情だった。
 あれから2か月が過ぎてしまった。時折「こんな所に追いやられた」と言うが、次第に施設での生活に慣れてきたように思う。これは私たちが勝手に思っているだけで本人にとっては耐え難いのかもしれない。
 最近は物忘れもエスカレートし、食事直後に「私は何も食べさせてもらっていな~い!」訴えることが多い。典型的な認知症の周辺症状だ。このような時に、「今食べたばかりでしょ」などと言うと逆効果なのは理解している。言われた方にしてみれば心穏やかではない。私の場合は、「そうか、それじゃ、これからご飯を炊いてもらおうか」とか、「家に帰ってパンを持ってくるから」とか言いながら体のマッサージを始めるのです。しばらくすると空腹を忘れてしまいます。時々、「何の楽しみもないから死んでしまいたい」と言います。暫くすると「なんか食べさせて~、死んでしまうよ~」と言います。矛盾しています。
 病院に居た頃は、リハビリを毎日行っていたが、施設では専門的なリハビリはありません。よって、わたしが”にわか理学療法士”に化けて両腕、両下肢のリハビリを行っている。しかし、徐々に全身が動かなくなっているように思います。
 食事を摂取するスピードが遅いのです。8時に食べ始めても9時半ごろはまだ”食事中”です。嚥下の力が弱くなっているようです。もっとも、状態が前傾しているのでスムーズに嚥下ができないのだと思います。それでも個人のスピードに合わせた食事になっているので良しとしなければなりません(ユニットケア)。 母は歌が好きです。レクレーションで歌を歌うときは生き生きととしているようです。12月24日は「クリスマスパーティ」、同じく27日は「餅つき大会」です。楽しみにしているようです。 物忘れがひどくなっていて、1時間前のことは忘れてしまいます。先日、母の姉妹二人が見舞いに来てくれました。しかし、翌日には忘れてしまっています。ところが姉妹二人の顔は覚えているのです。3人で撮った記念写真をベットの横に貼っております。時々写真を眺めさせてやるのですが、見舞いに来たことを覚えていないのです。「忘れる・・」事は幸せなことでしょうか?。忘れている事すら意識していなければのことですが。 母が施設に入所したことによって私たちの気持ちが楽になったかというとそうでもありません。やはり家族であることは間違いないのですから切ないのです。

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 母がミニ特養に入所して間もなく10カ月になる。
 病院に居た頃に比較すると数段のレベル低下となっている。同じ大腿骨頸部骨折をした父は歩けるようになったのに母は車椅子生活になってしまった。毎日のリハビリが無くなったことも影響しているが、認知症が本人のやる気を阻害しているようである。
 最近は、血圧低下や熱発(発熱)などもあってさらにレベル低下となっている。
 相変わらず物忘れがひどく、新しい記憶は濃い霧がかかったように思い出せない。人間は歳を重ねるごとに幼いころに戻るというが、母は今40歳台くらいに戻っているように思う。施設に日参して母を見舞っているが、「よう来たな」とか、「久しぶりだな・・」と言うことも多くなった。
 最近如実に感じることは、母と会話をしても返事が無いのである。「お母さん、聞いてる?」と呼びかけると「聞こえている・・」と言う。話しかけの際に「お母さん」と声をかけるが、自分の母親を呼ぶときに使っていた「おっかしゃーん」と言う方が反応が良いのである。
 母の周りに自分の写真や夫の写真、孫、ひ孫、兄弟の写真を貼っている。最近は若いころの写真を持って来てと言った。40歳くらいの写真を持っていったら怒った顔をした。母の毀れてしまった頭はどうなっているのかと思ってしまった。母の11人の姉妹の写真を見せると見事に名前を言い当てるが、孫、ひ孫にあたってはぐちゃぐちゃになっているようである。
 時々、私に向かって、「感謝しているよ」、「お前が来てくれたから元気になった」という。元来涙もろい私は母から顔をそらして涙ぐんでしまう。どこまで認知症が進んでいるのか計り知れない。
 先に、熱発や血圧低下があると書いた。少しずつ終末に向かっているのか・・と思ってしまう。 母を車椅子からベットに移乗することがあり母を抱きかかえてみると”重い”のである。終末を迎えていると書いた事は訂正しなければならない。おかげで腰痛を起こしてしまった。
 母の脳は”海馬”という部分が委縮しているので記憶があやふやになっている。しかし、認知症と言っても二けたの足し算が出来るのである。しかも、経済観念も持っている。所謂、安い、高い、儲けるという観念である。大腿骨頸部骨折さえなかったら少しは人間らしい生活が遅れたかもしれない。
 母を見舞った際に簡単なマッサージをしてやる。肩から二の腕にかけてゆっくりと擦ってやると「そこが一番気持ちいい・・」という。さらに、太腿を同じようにゆっくりと擦ってやると「そこが一番気持ちいい・・」とまた言う。今の私にはその位しかできない。
 いま、井上靖の「わが母の記」を読んでいる、映画化もされた。



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