2011年7月13日(水) |
鹿町町の「蕎麦打ち会」の皆さん激励す! |
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2011年6月4日(土) |
とりあえず「お疲れさん会」 |
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2011年5月8日(日) |
「東日本大震災」支援フリーマーケット |
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2010年10月30日(土) |
犬の十戒! |
母が入院している病院の2階一般食堂の壁に張り紙を発見しましたので紹介します。
張り紙の中身は「犬の十戒」です。今、犬を飼っている人、これから飼おうかと思っている人にとって「犬たち」の大事な一言です。
「犬の十戒」
1.私の一生は10年〜15年くらいしかありません。
ほんの僅かな時間でもあなたと離れていることは辛いのです。
私を飼う前にどうかそのことを考えてください。
2.私が「あなたが望んでいること」を理解できるようになるまで時間が必要です。
3.私を信頼してください・・それだけで私は幸せです。
4.私を長時間叱ったり、罰として閉じ込めたりしないでください。
あなたには仕事や楽しみがありますし友達だっているでしょう。 でも、私にはあなただけ
しかいないのです。
5.時には私に話しかけてください。 たとえあなたの言葉はわからなくても私に話しかけて
いるあなたの声で理解しています。
6.あなたが私のことをどんなふうに扱っているのか気づいてください。
私はそのことを決して忘れません。
7.私を叩く前に思い出してください。
私にはあなたの手の骨を簡単に噛み砕くことができる歯があるけど、私にはあなたを
噛まないようにしているということを。
8.私のことを、言うことを聞かない頑固で怠け者だと叱る前に、私がそうなる原因が何か
ないかとあなた自身考えてみてください。
適切な餌を与えなかったのでは?
日中太陽が照り続けている外に長時間放置していたのかも?
心臓が歳をとるにつれて弱っていないだろか?・・など。
9.私が歳をとってもどうか世話をしてください。 あなたも同じように歳をとるのですから。
10.最後の旅立ちの時には傍にいて私を見送ってください。
「見ているのがつらい」とか「私の居ないところで逝かせてあげて」なんて言わないで
ほしいのです。
あなたが傍にいてくれるだけで私にはどんなことでも安らかに受け入れられます。
そして・・・どうか忘れないでください。
私があなたを愛していることを。 |

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2010年8月21日(土) |
「丸山」のルーツは平戸(西日本新聞) |
酒の呑み会の席で得意の「うんちく」をぶっ放していた頃を思い出した。
「うんちく」はほとんどの人が知らない内容を喋って「大受け」をすると何とも心地よいものです。 そんな私の「うんちく集」を裏付ける記事が西日本新聞に掲載された。
題名の通り「丸山のルーツは平戸」であります。 この「うんちく」は、随分昔に或るラジオ番組で小耳に挟んだ物で、自分が長崎県出身であったためか随分と脚色して「うんちく」に仕上げたもの。
さて記事の内容を紹介すると、坂本龍馬ら幕末の志士が利用した料亭花月(長崎市丸山)は全身は妓楼(ぎろう)・引田屋(ひけたや)といいました。 引田屋の創業者は香川県引田村出身で長崎に来るまでは平戸で営業し、オランダ商館が1641年に長崎出島に移転すると同時に現在の丸山町に移転したのです。 丸山という地名は平戸の河内港(河内かまぼこで有名)にあり、長崎の丸山は平戸から町名ごと移転したものと思われる。 龍馬伝をごらんになっている方は料亭・引田屋の提灯に気づかれていると思いますが現在の「花月」の前身なのであります。 現在の平戸市河内町丸山は雑木林になっており当時の面影は有りませんが、当時の遊女の墓石がかすかに残っているだけです。
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2010年7月4日(日) |
ドラッカーにはまる! |
先日書店を覗くとビジネス書のジャンルに混ざっておじさんが手に取りにくい表紙の本を見つけた。
「もし、高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」という題名だった。
新聞等で評判は知っていたが、ここまで派手な表紙とは・・・。
昨年1月に前職を退職したが、退職後の当面の目標に「経済の勉強も忘れるな」と決めておいた。そんなことが背景にあってその派手な表紙の本を買うことにした。しかも図書館で関連の本も借りてきた。
なかなか難解であるが派手な表紙の方は分かりやすい!。また、主人公の「みなみ」ちゃんも可愛い(と思う)
ビジネス書を難しい書物とお考えの貴方、是非手にとって読んで下さい。 以前も、「ザ・ゴール」(シリーズ物)を読んだがこれも分かりやすく大いに役に立った。
退職した私が何故用もないのにビジネス書を読むかというと、機会が有ればやる気が有ると言うことです。ウォーキングもその一環で体力維持のつもりなんです。無いとは思いますが「オファー」が有ったときの備えと思ってひたすら無駄な努力をしているのです。
しかし、ビジネス書は普段の生活にも大いに役立つと信じていますよ。
一言、ビジネスにとって一番大事な事は「リスクマネジメント」です。
それからこんな件(くだり)があるので紹介しておきましょう。
「成長には準備が必要である。 いつ機会が訪れるかは予測出来ない。 準備しておかなければならない。 準備が出来ていなければ、機会は去り、他所へ行く。」
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2010年6月21日(月) |
世知原アジサイロードのアジサイ |
みなさーん!世知原町アジサイロードのアジサイは今が見頃ですよ。
今日(21日)濃霧の午後に偵察に行ってきました。昨年も今頃の偵察だったのですが今年も同じ咲き具合ですね。
世知原のアジサイの数は正式に数えた事がありませんが「万」を超えると聞いております。
県内の何処のアジサイより多いのだそうです。
今日のアジサイは濃霧の中でしたので良い感じでした。やっぱり、アジサイは雨の日が良いようです。
施設関係の方、外出支援にいかがでしょうか。
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2010年5月30日(日) |
世知原「じげもん市」開催さる! |
5月29日、30日は世知原「じげもん市」です。
この両日は世知原でもっとも賑わう日です。 それぞれ「じげもん(地の物」の出店が出来て賑わいますがなんと言っても世知原は「お茶」です。お茶の全国一になったこともありまして地元では有名なんですが、知名度が今一ですね。 私はもっとピーアールをすべきだと思います。
この日の新茶は通常よりも安いとあって我が家も買い出しに行きます。
私のお勧めは「白折茶」です。家庭で味わうにはこれで充分でしょうね。
今年は、雨も降らず絶好の「じげもん市」日和でした。
らっきょうも買いました。
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2010年5月18日(火) |
トマト栽培 |
今年も毎年恒例のトマト栽培を開始しました。
横浜時代から毎年トマトを育てて10年以上になります。
最初は実がなるどころか病気になってしまい立ち枯れることもありました。
色々経験をしてやっと食べられることの出来るトマトが収穫出来るようになったのはここ5年くらいですかね。
コツは、藁を敷いて土を乾かさないことと、脇芽を丹念に取ることですかね。
今年のトマトは桃太郎(大玉)、一番難しいらしいですね。
実がなっても底の方が腐ってしまうらしいですが、どなたか防止策をご存じないですかね。
お礼に収穫したトマトを一つあげます(のしつけて)。
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2010年5月13日(木) |
そう言われてもな〜! |
パールシーの開店前衣料品店の裏口です。恐らく真夜中もこの札がかかっていると思うのです。
「ご自由にお入り下さい」・・そう言われてもなぁ!空き巣に入るわけにもいかず悩んでしまいます。
閉店後は「勝手に入らないで!」ぐらいの札を下げて下さい。
こんな注意書き、他にもありますよ。 或る飲食店の注意書きですが「お客様へ、混雑するときは混雑しないようにお願いします・・・」
本当にそうしたいですね・・でもどこか変です。
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2010年4月23日(金) |
今年も新兵さんが! |
昨年の今頃は、ウォーキング中に女性の「新兵」に出くわしましたが、今年は男性の新兵さんです。 私の家の団地公園に200人くらいの新兵さんが集結し、これから「弓張岳」(標高300メートル程度)へ行軍らしい。 佐世保の住宅地でこんな光景を見ることが出来るなんてさすが基地の町ですね。
皆さん中程度の装備に「自動小銃?」を抱えての行軍ですから大変でしょう。 遠くから冷やかしの言葉をかけるなんて陛下??に申し訳ない。 「みなさ〜ん、ご苦労さ〜ん」
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2010年4月21日(水) |
若葉の頃 |
ようやく春になったといえます。こちらの山の木々は常緑樹が多く、春になると若葉がもくもくと出てきます。
丁度どんぶりに「ブロッコリー」を盛ったようになります。
その光景はチョットした不思議な光景ですよ。
こちらは野鳥の種類も多く、特に海辺で見かけるのは「イソヒヨドリ」で普通のヒヨドリが羽や胸毛に鮮やかな色(青っぽい)が付けたようなものです。
鳴き声も美しく、早朝や夕方には海辺を離れて住宅街で泣いています。
鳴き声は、「チュリルチュリルチュリ・・」ですかね。
この間見かけた鳥は「キツツキ」の仲間でした。
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2010年4月17日(土) |
初めまして「大輝」(たいき)でちゅ。 |
約一週間後の初孫です。
名前は「大輝」(たいき)といいます。何時までもキラキラと輝いているようにという願いを込めて名前を付けたようです。
「ぎらぎら」じゃなく「キラキラ」ですよ。
余談ですけど、「親の七光り何故悪い、一光りもできない親もいる」・・私は一光り出来ているのかなと反省しています。
「大輝」君は今のところ誰に似ているのかは判別できません。刻々と表情が変わるようですから。
よって、「今後ともよろしくお願い申し上げま〜ちゅ」
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2010年4月10日(土) |
我が家は「老人ホーム」 |
昨日、我が家の1階トイレに「トイレ用手すり」が取り付けられました。
母専用の手すり(肘掛け)で、非常に楽なようです。
我が家は次第に「老人ホーム」になっていきます。
家の中には歩行用の手すりが有るし、トイレはフルオートです。 しかし、フルオートは厭らしく、フルオートはオフになっています。
ウォシュレットは使ったことが無いようです。
家の中はバリアフリーで段が有りません。 段が有るのは「仏壇(ぶつだん)」だけ・・なんちゃって!
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2010年4月8日(木) |
ようやく爺ちゃんになりました! |
本日午前1時に陣痛が始まり、10時15分に待望の初孫(男子)が誕生しました。
いよいよ「爺ちゃん、婆ちゃん」になりました。
体重は3,660c・・大型です。
予定日は9日でしたが、見事に「お釈迦様の誕生日」に生まれてくれました。
母子共々元気で安心しました。
これからの子育てが大変だと思いますが、「子供手当」、「高校授業料無料」などもあって少しは楽かな・・。
しかし、元気で強く育ってくれればよいとおもっています。
バンザ〜イ!
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2010年4月3日(土) |
「老いの責任」 |
「老いの責任」というを言葉を生まれたばかりの子供に言っても何の事やら分かるまい。
成人式を迎えて暴れまくって世間を敵に回している若者に言っても分かるまい。
せめて、30代に突入した頃からは少しずつ理解してもらいたい。
人は平等に歳を重ねるが、「老いの程度」は平等では無いということ知るべきなのである。 メディア等で独居老人の孤独死、寝たきり老人、呆け老人等を見ることが出来るが、まさか自分がその当事者になるとは思っておらず、あり得ないと確信している。
老いはあっと今にやってくる、気が付かないうちに痴呆がでて慌てても遅いと言いたい。
もっとも、呆けてしまっては本人には分からないのだから始末が悪い。
「老いの責任」をもっと若い内から認識して欲しいし、自分もそうでありたい(今となっては遅いのかも知れない)
「アンチ・エイジング」と軽くはいうが、並大抵のことではない。 長い時間をかけても実現でないかも知れないのである。 ただ、自分が老いたときのことを真剣に考える時間くらいは惜しんではいけないと思う。
家族に迷惑をかけない、社会に迷惑をかけないという賢明な気持ちを持ち合わせ続けることが出来ればやれることは有るはずである。
まずは呆けないことと、歩けることと、自分で食べられることと、そして老人ホームに入れるくらいの資金を持つことである。 そして、「家族に迷惑をかけそうだな〜」、「こりゃ〜一人では暮らせんな〜」と思う力と少しばかりの決断力を持ち合わせていて意思表示をすることができるようにしておきたい。
好きなように生きて、幸せな、安らかな死を迎えたい等と思うのは十年早い!(十年ないかもな・・・)
よって、私は、毎日ウォーキングを続け、毎日ビタミンCを服用し、欲しい最新のパソコンも辛抱し、安い焼酎をチビリとやり、呆け防止に青魚を喰らい、地道に500円玉貯金をし、もしもの時の為の「遺言」も用意している。
「老いの責任」とはこのように切ないものである。
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2010年3月29日(月) |
坂本龍馬の免許皆伝(千葉道場)は薙刀(長刀)? |
江戸の千葉定吉道場で修行をしたはずの龍馬には、薙刀の目録である「北辰一刀流長刀目録」以外にその成果を示す記録がない(菊池 明著)。土佐では免許皆伝まで達した龍馬も江戸ではその実力を評価されなかったのでしょう。
写真は、その目録であるが、チョット意外な事に気づく。
このことについて、千葉佐那は次のように語っている。
「安政3年8月に再び私の道場に戻り修行に打ち込んでおりました。 父は坂本さんを塾頭に任じ、翌5年1月、北辰一刀流目録を与えました。」
「そこで、坂本さんは目録の中に私たち三姉妹の名も書き込むように頼んでおりました。」
「父は、例のない事だと言いながら、満更でもなさそうに三姉妹の名を書き込み坂本さんに与えました」
面白いですね! |
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2010年3月24日(水) |
戸町に遊びに来ていたマー君は「福山雅治」?ほんとかな |
この2,3日は雨続きで毎朝のウォーキングが出来ない。 何か面白いことがないのだろうかと思案していると、カミさんからこんな話が飛び出した。
「違うかなと思うけど、この写真の子供、マー君て言うの」
「この子、近くの松尾酒屋にお手伝いに来ていたその家のお姉さんの子供よ」
「確か、稲佐から来ていたの」
「戸町と稲佐は離れていたから、マー君には友達がいなくて私の所に来てはいろいろと話していた」
「よくおしゃべりする子だったし、夕時に一緒にご飯を食べたこともあったのよ」
「確か、福山のマー君といっていたわ」
「えーっ、福山雅治?」・・・かも知れない。
条件その1・・マー君と呼んでいた(雅治がマー君?)
条件その2・・住んでいる家は稲佐(ぴったり)
条件その3・・福山という名前(ぴったり)
カミさんは、違うんじゃない?と謙遜気味、 少し面白い話だった!
横にいる胴体だけの人が私のカミさん、顔だけは出すな!言われた。 |
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2010年3月23日(火) |
佐那(佐那子)とお龍 |
佐那は佐那子という。 前にお知らせした佐那と龍馬の関係を少し見方を変えて見ました。(泉 淳・著より)
「おまんも、わしと一緒に土佐へ行ってくれるかよ」
「はい、わたしはどこまでも、ついて行きます」
何年か前に交わした会話が、今度も何回もくり返された。長州征伐で上方はもめているのに、佐那子といれば平和だった。胸にはほのぼのとした温もりが湧くのであつた。この小柄で、何才になつても少女のような佐那子を、食ってしまいたいように思った。十年前には、こいつに何回も籠手を打たれたのだ。生涯の最後には故郷に帰って、佐那子と二人で小さな町道場でも開いて、共白髪まで一しょに暮らしたいと思った。あの青い山、青い海、名誉も富もいらない。どこまでもついて来るという佐那子がいるかぎり、幸せに包まれて生涯を送ることができるのだと思った。「けんど、わしは今は、こうしておれんのじや。身のふり方を決めてやらねばならん若い者が多勢いるのじや」「はい、わたしは、いつまででも待っております」「待ってくれ、待ちよってくれえ」
龍馬は一つの計画を抱いて、年の瀬近くに江戸を離れた。
(この頃は、長州が英米仏蘭の総攻撃を受けたり、勝海舟率いる操練所が廃止になったり、その勝海舟がお役御免になったりした頃である。)
だが彼は、いつまで待っても、帰っては来なかった。そして剣術なんか、はやらない時代となり、佐那子は女鍼灸師となつて暮らした。晩年はある民権家の援助を受けて、甲府市に移ったが、龍馬を夫と信じて独身を通した。甲府清運寺にある墓には、裏面に小さい字で「坂本龍馬室」と刻まれている。彼女の遺言によるものだ。没年明治二十九年である。
龍馬がお龍と結婚したきっかけはなんと言っても「寺田屋事件」である。 襲撃されピストルで受け止めた際に手に指を負傷しているが、逃げ込んだ薩摩屋敷でよる昼となく看護したのがお龍である。 お龍は、楢崎将作という医師の娘だったのでそれは適切な看護だったと言われている。
そのような光景をみて中岡慎太郎は感激し、龍馬に「おまん、お龍さんを嫁にもらいや」、「お龍さんは命の恩人ぜよ、わしが仲人をしてやる」という。 龍馬も「・・命の恩人と言われると返す言葉もない・・」と思ったのだろう。 とうとう龍馬は西郷隆盛の家で結婚式を挙げたのである。 |
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2010年3月17日(水) |
外出支援 |
今日は午後から「外出支援」(介護用語)でハウステンボスに出かけてみた。
利用者(母)一人につき介護者3人(父、家内、私)、そのうち、85歳の父は役立たず。 しかし、今のところ手もかからない。
母はしばらく自力歩行を続けていたが、くたびれたのか車いすに乗車。 「こんな良いところは車いすなんかで来ちゃ駄目!」としきりに言う。 「今度来るときは歩けるようになって来る」と意気込みを示す。
今よりも元気になってくれれば良いのだが、痴呆症のスピードの方が早いようだ。
最近は過食症じゃないかと思うくらいよく食べる。 これも痴呆症で、今しがた食べたのに、まだ食べていないと訴える。 食べ過ぎが続くと「糖尿病」や高血圧が心配。
「84歳まで生きたのだから好きなようにさせろ」という父は無責任。
ハウステンボスに連れて着てくれて「ありがとう、ありがとう」という母の言葉に救われるが、これからどんどん状態が悪くなっていくと先が思いやられる。
「ああ、私もいつかこんな時期が来るのだ」と思うと切ない。 しかし、今から準備をしておこうと思う。
今日のハウステンボスはけっこう観光客も多く、倒れかかっている所帯も持ち直しの兆しが出てきたように思う。 |

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2010年3月14日(日) |
千葉佐那のことでもう少し! |
龍馬は嘉永6年(1853)4月下旬、北辰一刀流千葉定吉道場へ入門しているが、その時の指南役が、長男重太郎とその妹佐那であった。 佐那は14歳で北辰一刀流免許皆伝に名を連ねた美人剣士で、長刀も良くし、力は並の男よりも強く、顔型は平井収二郎の妹加尾(3月7日放送龍馬伝の中で兄収二郎により龍馬との仲を引き裂かれる)よりも少し良く、琴も良く弾くと言われていた。
佐那は龍馬が24歳の時に婚約をしており、佐那32歳の頃に龍馬の死を知ることになる。佐那は、明治29年10月59歳で没している。佐那の墓碑には「坂本龍馬室」と刻まれています。佐那もお龍と同じく時代が江戸から明治へと激しく移り変わる時代の犠牲者といって良いのではないだろうか(佐那ことは龍馬から乙女姉さんに書いた手紙からうかがい知れる、龍馬は乙女姉さんにしきりに手紙を書いている琴はご存じの通り)
さて、写真上は30歳の頃のお龍と下側の晩年のそれです・・が、一説では同一人物ではないと言われています。 そういえば上側の切れ長の目と下側の大きな目は違います。
目は歳をとると小さくなりますが右側の写真は大きいままですよね。 |

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2010年3月13日(土) |
っっっf |
お龍と龍馬の結婚生活は3年3ヶ月であり、龍馬没後に西村松兵衛に嫁ぎその結婚生活は31年である。 にもかかわらず、お龍の墓碑には「龍馬の妻」と刻まれ、しかも夫松兵衛が健在であったにもかかわらずである。
墓碑の施主はお龍の妹「光枝」である。 何故、施主が夫ではなく、妹光枝なのか。ここからは少しばかりワイドショー」っぽくなりますが、それには深い意味があったのです。
お龍が息を引き取った住所と、夫松兵衛の住所が違っていたのです。つまり二人は別居していたのです。大正4年2月に夫松兵衛は死亡しておりますが、その死亡届は光枝が「同居人」として届け出ている。ここからが本番です。 光枝は夫中沢助蔵が亡くなり、未亡人となってお龍夫妻(夫松兵衛)の家に転がり込んでいる。つまり、お龍、松兵衛、光枝が同居していたことになります。その後、光枝と松兵衛はお龍を残し二人して別の場所に移り住んでおります。どうもお龍はこの件があり精神的な苦痛を味わいながら生活をおくっていたようです。皆さんの想像通りですよ。 |
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2010年3月8日(月) |
龍馬は佐那と婚約していた! |
今、龍馬がブームです。 龍馬と言えば日本で初めての新婚旅行で有名な妻、お龍は皆さんが知っているとおりです。 しかし、龍馬は千葉道場の千葉定吉次女の佐那と婚約していたのです。(安政5年) テレビ「龍馬伝」3月7日放送では、佐那に別れを告げ?土佐へ帰ってしまいますが、その後どういう訳か佐那と婚約しております。
佐那は龍馬没後、龍馬から貰った紋付きの袖を形見として終生独身でしたが、本人は後室(未亡人)として生きております。 では、お龍はどうかというと、これも龍馬没後、後室として生きております(再婚しましたが)。 どちらも「後室」として記録に残っているようですが、歴史的にはお龍さんの方が正式な”妻”として認められていたようです。 土佐に残した幼なじみの「かお」、千葉道場の「佐那」、そしてお龍、龍馬はよほど母性本能をくすぐられる男だったのでしょう。先般、図書館に立ち寄った際に一冊の本が目に入りまして手にしたところ面白そうだったので読んでみました。
お龍さんのその後(龍馬没後)ですが・・。勿論龍馬はお龍さんにぞっこん惚れていたのは間違いないのです。 お龍さんは男勝りで生意気で品行も良くなく身内やら海援隊の同士にも嫌われていたようです。 一説では、ピストル(短銃)を打たせると百発百中で有ったとも言われている。時には龍馬を笠に着て同士を下にみたがる性格であった。 そういう風で晩年はあちらこちらを流転し、最後は横須賀で没した(享年66歳)
大河ドラマ「龍馬伝」に水を差すようであるが、これからのドラマの展開が楽しみだ。
少し軌道を離れます。 皆さん、北海道のおみやげに「六花亭」のお菓子を買ったことが有りませんか? 「六花亭」をお作りになれたのは中村直行さんですが、この方は、坂本龍馬のお兄さん「坂本権平直方」の末裔です。因みに龍馬は「坂本龍馬直柔(なおなり)」と言います。 坂本家の男子には「直」が付いています |
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2010年3月4日(木) |
胡蝶蘭が咲きました。 |
昨年、前職を退職する際に餞別に高価な胡蝶蘭を戴きました。
その後2ヶ月ほど愛らしい花を見せていてくれましたが、花の命ははかなく、葉っぱだけが残ってしまいました。 そのままに放置しておくわけにもいかず、新しい鉢を用意し”水苔”にて形を整えました。
ところが昨年秋頃から大きな葉っぱの根本からニョキニョキと茎が伸び始め、暮れには花芽らしいものも生えてきました。 期待はしていなかったのですが見事に花を咲かせ始めました。
全部で3株ありましたが、全て花芽がつきその蕾も大きくなってきております。
後一月もすると満開となることでしょう。
皆さん、胡蝶蘭は翌年も咲きますので枯れたら捨てるなどしないで大事に育ててやって下さい。
・鉢は変えて下さい ・用土は土ではなく、水苔だけです ・水は水苔が乾いてから少なめに ・後は愛情を注ぐだけです・・簡単でしょう。 |
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2009年8月20日(木) |
「うっ!耳毛?」 |
今朝、日課のひげ剃りをしていたら、「・・うっ、何、あれ」、左耳の出口(入り口とも言う)付近に一筋の黒いもの発見! 引っ張って見たら、「・・あれっ、どこかと繋がっている」、「・・もしかして”耳毛”?」。
そうなんです、”耳毛”なんです。 人間として生まれて初めて”耳毛”が左耳に生息していたことを発見した。 「・・ということは、加齢の結果?」と思えばそんなに喜ぶことではない。
しかし、今朝いきなり伸びてきたわけではないのだろうに、今まで発見できなかった事が悔しいのです。
右耳をチェックしてみたら、異常なし(自分自身では見えないだけかも知れない)。 よって、今日を境に、残る人生を前向きに生きようと思うに至った。 |
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2009年8月15日(土) |
こんな石碑もあるんです。 |
パールシーリゾート(鹿子前)の玄関付近に写真のような石碑があります。
写真では見にくいと思いますが、西海国立公園指定50周年記念曲「九十九詩人」(くじゅうくしじん)という歌の記念碑です。
なんと、作詞「阿久 悠」、作曲「羽田 健太郎」の超有名な方達の作品です。
この碑が建てられたのは昨年の3月でした。 しかし、直後に羽田さんは亡くなり、後を追ったか追わなかった分かりませんが、阿久悠さんも亡くなった訳です。
あまり良い感じはしませんが、せっかくの歌ですから大事にしなければいけません。 この裏に楽譜も刻んでありましたので、鼻歌で歌って見ましたが、さすがに良い曲です。 ただ、この曲、佐世保市内で聞くことはありません。
もっとピーアールしたら良いと思うんですが。 |
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2009年8月14日(金) |
一工夫でメロンの香り |
お盆休みに入っている方、依然として頑張っている方、そして、それなりに暮らしている方、少しばかり秋風が吹く故郷の縁側なんぞで焼酎のロックや水割りなど呑んでゆったりととしたらどうですか? 最近は「ハイボール」なども流行っているようですが、写真のように一工夫して焼酎を呑むと最高ですよ。
グラスの中の緑は「キュウリ」です。 一度だまされたと思って試してご覧なさい、ほのかな「メロン」の香りがしてさわやかな焼酎に早変わりです。
因みに、この飲み方、昔の仕事仲間の先輩に教えて頂いたものです。
居酒屋でキュウリのスライスをオーダーして呑んでみて下さい。 周りの人にも大受け間違いなしです。 しかも安上がりです。
レモンなどを入れるのはオーソドックスですが、キュウリの方がさっぱりとして素朴で良いですよ。
申し遅れました、これを[河童割り」(かっぱわり)といいます。
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2009年8月10日(月) |
投稿名「シゲキ」さんのご要望?にお答えして。 |
特別企画! 投稿名「シゲキ」さんお要望にお応えして、幸和町の写真を掲載します。
上の写真の風景、見覚えがあるでしょう? ピンクっぽい建物は、確か病院だったでしょう。この先に一帯が炭坑の住宅(略して”炭住”という)でした。
因みに、炭住の説明をしますと、炭坑に勤めていた人達の住宅です。一般的には「長屋」形式で、10世帯(まちまちですが)くらいで、両側にトイレが作られていました。 基本的に、家賃、燃料代、水などは会社からの支給だったように思います。
時々、家の前には、「一番方」、「二番方」、「三番方」などの札がぶら下がっており、夜の勤務の家の周りでは大きな声をだして遊ぶことがはばかられました。
そんな、長屋形式の住宅でしたが、火事の記憶がありません。 皆さん共同意識があったのか火の元には気をつけていたのでしょう。
このような炭住があちらこちらにあり、その中に猪調小学校総生徒数2,800人も住んでいたのです。
生活は大変だったようですが、皆元気でした(屈託がない)
中途半端ですが、特別企画を終わります。 |

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2009年8月9日(日) |
ホテイアオイ」が満開!
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この沼に咲いている花は、「ホテイアオイ」です。 鮮やかな黄緑色の浮き草から薄紫の花が咲いています。
このくらい群生していると壮観ですね。 これもウォーキングコース変更のおかげです。
今日は長崎原爆の日です。 11時2分に鳴り響いた佐世保のサイレンは、広島の時と比べて短かったな気がします。
私の本籍は何故か、「長崎市坂本町」です。 浦上天主堂の近くなんで、もっとも爆心地近い所なんですね。 そんな私が被爆者の子供になっていないのは、「本籍」のなせる技ででしょうか。
核兵器を廃絶するまえに「戦争をしない」事の方が先だと思いますが、いかがでしょうか。 私には、「核」を使わない戦争はだったら仕方ない・・というように聞こえますが。
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2009年8月6日(木) |
そろそろ秋です。 |
今日は、広島の原爆投下日です。 佐世保でも8時15分にはサイレンが鳴り響きました。 当時、佐世保は重要な軍事拠点でしたから、佐世保にも原爆が投下されていたかも知れません。
地元のローカルニュースに原爆関係のニュースが流れない日はほとんどありません。 そのくらい、原爆に対して敏感です。
反面、国際的には核兵器を容認する人が相当数いることも事実です。
オバマ大統領も核廃絶を目標にしていますが、核兵器を容認している人達の意見も受け止める必要もあるとおもいます。 容認意見はタブー視されます、マスコミもなかなか取り上げようとしません。 現実を直視しなければならない場合もあるはずですね。 その上で「平和」を考えなければなりませんね。
写真は、弓張岳の先にある「但馬公園」の旧日本軍の弾薬庫跡のようですね。
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2009年8月07日 |
いや〜、暑かった! |
いや〜、昨日は暑かった! 今年の夏一番の暑さだったと思います。 始めて寝る前にエアコンを使いました。
今日も、昨日と同じような暑さになるとのこと、しかし、意外と湿度が高くないのですね。
写真は、私の故郷が誇る「潜龍ヶ滝」、美しい滝です。 小さい頃は、この滝壺で唇を真っ青にしながら泳いでました。
都会の近くにこのような滝があれば、大勢の人達が訪れて、有名になるのでしょうが、美しい滝でありながら、訪れる人はあまりいません。
滝の入り口に古い神社があり、そこでは、湧き水で冷やしたトコロテンを売っていた。 私の1日の小遣いは当時、5円。 そのトコロッテンは10円、どうしても食べたかったのですが、やがて故郷を離れる時までそのトコロテンを食べることはなかった。(今はもう売っていない・・誰も来ないから)。
昨日、今日のような暑い日には、天然クーラーの「潜龍ヶ滝」に行くのが「エコ」です。 |
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2010年8月01日 |
私の手に答えてくれました! |
今日も飽きずに「海きらら」へ行き、イルカ達に挨拶をしてきました。
因みに、3頭とも名前が決まっておりません。 かわいい名前の「募集中」らしいですよ。 一応、応募しました。 「ウメちゃん」、「かっちゃん」、「ひろちゃん」??
いずれ「ウメちゃん」となるこの子、私が手のひらをかざしたら、近寄ってきて写真のようなポーズをとってくれました。 何ともかわいいですね。 手のひらが写っているでしょう。(右手はカメラです)
この後、口をガバッとあけて、ノコギリのような歯を見せたので、思わず手を引っ込めましたがね・・。 やはり、初対面は苦手です。
なんだか、気分がすっきりしたような、穏やかになったような、癒されたような気分になりました。 イルカセラピーって本当に有るんですね。
これを機会に足繁く通うことにいたしましょう。
そうそう、クラゲの展示室も癒されますし、場内が暗いため、つい眠気が出てきますのでご注意。
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